紀元前2000年 – 柔術の起源

柔術という競技がいつ頃始まったのかは正確には解明されていませんが、歴史研究家の間ではギリシャ、インド、中国、ローマ、そしてアメリカの先住民族の間で組み手が存在したという証拠が見つかっています。
ブラジリアン柔術というのは、ある特定の個人や団体によって突然作られたものではなく、様々な文化や歴史の中での格闘の場面を経て自然に今の形に形づくられてきたと考えられています。
柔術という競技がいつ頃始まったのかは正確には解明されていませんが、歴史研究家の間ではギリシャ、インド、中国、ローマ、そしてアメリカの先住民族の間で組み手が存在したという証拠が見つかっています。
ブラジリアン柔術というのは、ある特定の個人や団体によって突然作られたものではなく、様々な文化や歴史の中での格闘の場面を経て自然に今の形に形づくられてきたと考えられています。
歴史的に見ると、インドの仏教僧の存在は柔術の歴史を語る上で切り離せないと言えるでしょう。
仏教ではこの世に存在する生き物すべてに尊厳を持って接することを教えています。その中から襲ってきた相手に必要以上の攻撃を加えないという「自己防衛」という概念が生まれたのです。
この仏教僧の考え方はアジア諸国に広まり、後に中国から日本に伝わりました。
日本では、武士が政権を握る封建社会の中で、より有効で誰にでも学べる格闘技を発展させる必要性から、柔術が広まりました。柔術という言葉自体は17世紀まで使われていませんでしたが、組み技は戦いに必要な技術として広まりました。柔術の技術は、鎧兜を身につけた武士を、武器なしで殺傷する技として活用されたのです。
ですが、明治維新と共に封建社会は終わりを告げ、代わって産業化の時代を迎えました。武士はその地位と権力を失い、柔術自体、職を失ったサムライたちの暴力の手段として使われることになりました。後に講道館を開いた嘉納治五郎(1860~1938年)は、格闘技としての柔術の名声を守るために尽力した人物なのです。
嘉納は、柔術というものが本来、戦いの技としてだけでなく、心身ともにバランスの取れた良い人間を形成する為の教育の方法としてあるべきだと考えました。日本の社会と経済の発展の為にも、柔術を人々が成熟する為のツールとして使うべきだと信じたのです。その為に嘉納は、危険な技を取り除き万人が練習出来る為の柔術を体系化しました。それが今に伝わる柔道なのです。
嘉納の弟子である前田光世は、彼から柔術の全てを教わりました。またその寝技と自己防衛(セルフディフェンス)の技術を格闘技に積極的に取り入れたのです。コンデ・コマの名で知られる前田は、その高い技術を認められ、世界に柔術を広める為に海外に派遣されました。アメリカ、中南米、ヨーロッパ各地で柔術の素晴らしさを伝えながら、1914年にブラジルの地へ渡りました。そこでカーロス グレイシーという少年との出会いを果たし、その少年を通して一粒の柔術の種をブラジルに植える事となったのです。
嘉納治五郎の弟子である前田は選りすぐりの格闘家達を引き連れて1914年、ブラジルの北部のパラ州に到着しました。その地域に日本人コミュニティを作る動きがあった為、その手助けをする事になっていました。
前田は、日本文化を現地の人達に伝える為、柔術のデモンストレーションを各地で行い人気を呼びました。カーロス グレイシーは、そのデモンストレーションの場で初めて前田に会いました。カーロスは前田が自分よりもずっと大きく強い相手を意図も簡単に倒してしまうその姿に感動したと言います。
カーロスは幼少期から暴れん坊で知られ、両親も手をつけられない事があったそうです。カーロスの父親はしつけの意味も込め、前田に弟子入りさせる事に決めたのです。
カーロス グレイシー Sr. は14歳で前田光世に弟子入りしました。それまで問題児であったカーロスは、柔術の修行を通じて心身共に素晴らしく成長しました。なぜなら、それまででは感じる事が出来なかった、自らを律する事や自信を柔術の教えを通して体感する事が出来たからです。
厳しい修行の中でカーロスは、これまでの人生で考えた事もなかった、自身の性格、自身の能力の限界、また自身の強さについて深く考え理解し、心を落ち着けていきました。5年が過ぎカーロスは両親、兄弟と共にリオデジャネイロに移りました。
ブラジルの首都(当時)に着いたのは、カーロスが20歳の頃でした。当初新しい地での生活に馴染めず公務員として働いていましたが、前田から教わった格闘技の美を広く伝えたいという情熱は抑える事が出来ない状態となっていたのです。
20世紀のブラジルで、格闘技の先生という仕事は収入も約束された職業や地位ではありませんでした。月謝を払う事の出来る生徒を探す事すら難しい事だったのです。その後カーロスはブラジル各地を転々としながら先生としての仕事を続け、やがてリオに帰ってきました。
1925年、ブラジル・リオデジャネイロの地に初のグレイシースクールが創設されました。それはカーロスが23歳の時の事でした。
経済的にも厳しかった為、小さな民家のリビングをトレーニング場に改装しただけのものでしたが、カーロスは人々の人生を豊かなものにする柔術をブラジルの国民的スポーツにしたいという夢と共にスクールを創設したのです。
そしてそのスクールで弟のオズワルド、ガスタオ、ジョージ、そしてエリオを指導したのです。
エリオはスクールが創設された時、若干12歳の少年でした。カーロスはスクールの経営を一手に引き受けて多忙だった為、カーロスの弟達がエリオの指導にあたっていました。カーロスは修行を初めたエリオの並外れた才能に直ぐに気づき、忙しい仕事の合間を縫って彼の指導を始める事にしたのです。
エリオは体格も小さく、習得するのが難しい技も多々ありましたが、カーロスをはじめ年上の兄達の指導のもと、失敗をしては再トライという事を繰り返し、目覚ましい速度で上達して行ったのです。そして数々の大会に出場し、遂にはブラジル国内のチャンピオンにまで成長したのです。
その後エリオがスクールの経営を担いましたがスクールは順調に成長していきました。
カーロス グレイシー Jr. (以下マスターカーロス Jr.)は1956年1月17日、格闘一家に生を受けました。父のカーロス グレイシー Sr.から、格闘技だけでなく先代から受け継がれた人生哲学や教えを学び、そこから大きな影響を受けたのです。
幼少期から少年期の最も大きな体験は、リオデジャネイロの山奥にある道場で修業を積んだ事です。叔父のエリオやその兄弟、自分の兄弟やエリオの息子達と一緒に住み、何年にも渡って共にトレーニングをした場所で、マスターカーロス Jr. は共同生活で他人と協調して行動する事の大切さ、他人と共存・共有する事の意味、他人と学び合う事の偉大さを実感し、それらを人生の理念としていったのです。マスターカーロス Jr. はその後もその道場と同じ様に、集団の中で成長出来る様な環境を再現し、それらの理想をもって弟子の育成に携わっています。
叔父エリオとホーレスのスクールで柔術の指導と経営の経験を積んだマスターカーロス Jr. は、自身のスクールの設立を目指しました。そして遂に1986年、現在グレイシーバッハがある場所で初のグレイシーバッハのスクールを創設したのです。
80年代、カーウソン グレイシー率いるチームが殆どの大会で好成績を収めていました。マスターカーロス Jr. は、カーウソンのチームと互角に勝負し勝つ事の出来るチームの育成を目標に、若い柔術家の育成を始めました。そしてその育成の過程では、父カーロスから受け継いだ柔術の真の理念を惜しみなく、教え伝えたのです。その理念とは、柔術は個人の能力を伸ばし成長させる事にある、という事です。その理念の元に信念を持って練習に励み、能力ある生徒は目覚ましい速度で上達していきました。
グレイシーバッハでは、医師やエンジニア、弁護士など職業を問わず幅広い分野で活躍する人々、そして年齢、性別、国籍の異なる様々な人々が練習を続け、柔術の技を磨くと共に、マスターカーロス Jr. の健康的な生き方、食事、そして人との関わり方について学んでいました。
カーロスとエリオがリオデジャネイロで指導を行っていた時期、兄弟のオズワルドとジョージは違う州でグレイシースクールを開校し、指導を行っていました。それらのスクールで指導を受けた生徒は一人また一人と指導者として成長し、柔術が広くブラジル全土に伝わっていきました。
そしてホーウスとカーウソンら第2世代の時代に柔術の普及は加速していきました。20世紀を迎えたブラジルでは、リオデジャネイロを中心に沢山の大会が各地で開かれる事になりました。1994年には、マスターカーロス Jr. が中心となり、ブラジリアン柔術連盟(現CBJJ)を立ち上げ、ブラジルで国内初となるトーナメントを開催しました。
1993年、ホリオン グレイシーが違う分野の格闘家を募り、初のアルティメット大会(UFC)を開催しました(所謂、異種格闘技戦)。世界の人々はこの大会に注目しましたが、その中で人々が何よりも驚いた事は、見た目では明らかに小さく弱そうなホイス グレイシーが、チョーク(首を絞めるテクニック)やアームバー(腕を極めるテクニック)などの寝技で次々と対戦相手を倒した事でした。
それがきっかけとなり、世界中の格闘家がブラジリアン柔術に着目し、1対1の格闘においてブラジリアン柔術に勝る格闘技はないという事に気づきました。まさに格闘技界の「革命」といっても過言ではない出来事だったのです。
ブラジリアン柔術が世界を虜にした出来事を境に、世界の様々な国、地域で柔術を指導するインストラクターが求められました。ブラジリアン柔術で黒帯を認定されている指導者らは世界各国の様々な地域に派遣されてセミナーを開催し、柔術の素晴らしい理念と技術を伝えました。
この時期、既にグレイシーバッハでは何十人もの黒帯を輩出しており、この人々が指導者となり世界中に派遣されました。その中の一人、マスターホベルト マイアは、アメリカのマサチューセッツ州ボストンに派遣されました。またマスターマルシオ シマスはフロリダ州オーランドに、プロフェッサーエドゥアルド リマは同州タンパに派遣されました。
更に多くの黒帯認定者が柔術を広める為に世界中に飛び立ちました。オーストラリアに派遣されたProf. Marcelo Resende、アメリカ各地に派遣されたProf. Ze Radiola、Master Mauricio Rope、Frederico Pimentel、Prof. Vinícius Draculino Magalhaes、ヨーロッパに派遣されたBraulio Estima、そして日本にはProf. Nao Takigawa(滝川直央)が派遣され活躍しています。
マスターカーロス Jr. は柔術を通して、健康的な生き方、豊かな人生というものを弟子達に教え続けました。柔術が個人を限りなく成長させるという事を、父、叔父達、兄弟、そして従兄弟達から教えられた大切な財産として受け止め、その理念を継承出来る指導者の育成を目標としました
彼の元で黒帯を授与された者はその後も柔術に取り組み、マスターカーロス Jr. から教わった全てを指導者として生徒達に伝えています。マスターカーロス Jr. からグレイシーバッハの指導者となる許可を得た者は、スクールを開校した後もマスターカーロス Jr. からのサポートを受け続けています。マスターカーロスとインストラクターとの間のコミュニケーションを円滑に行う為、グレイシーバッハ アソシエーションが設立されたのです。
2005年には、マスター カーロス Jr. は周りが予想もしなかった大きな一歩を踏み出します。アメリカでの柔術の成長を更に加速させる為、グレイシーバッハの本部をブラジルのリオデジャネイロからアメリカ・カリフォルニア州レイクフォレストに移したのです。
マスターカーロス Jr. は新天地でまた一からのスタートを余儀なくされましたが、現在では世界で最高のブラジリアン柔術スクールを開校したという栄誉に繋がっています。
ブラジルから黒帯を呼び寄せ、アメリカでのスクールを開校するという一大プロジェクトが始まりました。世界中で柔術を教える指導者の模範となるような、最高のトレーニングと指導、そして経営哲学を学ぶ為の環境を目指したのです。
グレイシーバッハ アメリカは、レイクフォレストという地で小さな倉庫のような道場から始まり、今では7000スクエアフィートという巨大な2階建ての施設へと変貌し、カリフォルニアに住む何百人の人々が通う場へと発展しました。
アメリカの本部発足を機に、世界中に散らばったグレイシーバッハ統一ルール、指導方法やカリキュラムの整備が急がれました。
世界的にグレイシーバッハが増えるうちに、マスターカーロス Jr. 一人で全スクールを統括するのは難しくなってきていたのです。また地理的環境から、マスターカーロス Jr. が直接出向いてスクールの指導をする事が困難なケースもありました。
世界中の指導者とのコミュニケーションを円滑に行い、どのスクールでも常にクオリティーの高いレベルの指導を行う事を目的に2005年、グレイシーバッハ アソシエーションが正式に発足しました。
現在では、全世界から指導者が定期的にアメリカに招集され、スクールの基準や指導方法などを統一させる為にミーティングを開催しています。
グレイシーバッハ アメリカの設立以来、その地に多くのグレイシーバッハの黒帯達がマスターカーロス Jr. の元で指導や経営について学ぶ為にやってきました。そしてそれを学んだ黒帯達は、彼らの地元であるサンタアナ、コスタメサ、ハンティングトンビーチ、ヨーバリンダ、サンクレメント、ガーデングローブなどで新たにスクールを開校していきました。
今では何百ものグレイシーバッハスクールがアメリカに点在しており、そのスクール間で交流や支援をし合いながら、柔術の楽しさを次の世代に教えています。
またグレイシーバッハのスクールがある地域でのボランティアプロジェクトや地元の学校との連携なども行われています。
グレイシーバッハ アソシエーションは、グレイシーバッハ アメリカでの指導が適格に他のサテライトスクールで実践されているかどうかをチェックしなければなりません。グレイシーバッハの理念と指導方法が他の学校でも同じように行われていなければ意味がないからです。
その為に、GBアソシエーションは「グレイシーバッハプレミアムスクールプログラム」をスタートさせました。これは、指導方法、経営方法、トレーニングに使用するもの全てを全スクール間で統一させるプログラムでした。
このプログラムによって本部とその他のスクールとの関係はより強まり、アメリカだけでなく、海外の道場との間でも活用されるようになりました。
グレイシーバッハは世界的な組織として発展して行きました。柔術というもの自体の普及と共に、スクールを開いた各地域では急速に生徒数が増加していきました。
世界的な組織とはいえ、各地域では一つの小さなスクールが中心となって活動している為、様々な問題にも直面しました。その為グレイシーバッハは各スクールを地域・大陸ごとに分けしてその代表者を決め、サポートを始めました。
現在、北アメリカ、オセアニア、ヨーロッパ、日本そしてブラジルという5つの地域に区分けをし、その中でスクールへのサポートを行っています。
2010年3月、カリフォルニア・アーバインで、マスターカーロス Jr. と各地域の指導者が集まる会議が開催されました。ここで、グレイシーバッハの理念と授業をより広く人々に伝え広めていくツールとして、「フランチャイズプログラム」が発表されました。
これはグレイシーバッハの歴史の中でも大きな出来事でした。
フランチャイズはカリフォルニアで始まり、今ではアメリカ国内のテキサス、フロリダ、ハワイ、ニューメキシコ、ルイジアナ、テネシー、ミズーリなど38州に広がっています。
アメリカ国内を問わず、海外でもより多くの人々に身近な存在になることを目標に日々努力が続けられています。
「これは、ほんのスタートでしかないのです。」
~ マスター カーロス グレイシー Jr.